川崎市

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川崎市とは[編集 | ソースを編集]

神奈川県に位置する都市。人口は,約155万人、面積は約144.4 km²で,人口は多いが、面積は政令指定都市で一番少ない。

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川崎市には,区が7つある。


川崎区


幸区


中原区


高津区


宮前区


多摩区


麻生区

川崎市歌[編集 | ソースを編集]

川崎市歌は、市制10周年を記念して、昭和9年に、歌詞は公募の中から小林俊三氏の作品で、作曲は高階哲夫氏に依頼し制作されたものです。  昭和44年に歌詞の一部を時代に合わせ、改訂しましたが、改訂後の歌詞についても、本市の現状に合わなくなっている部分があり、市民の皆さんにより親しまれ、歌い継がれていくようにしていきたいとの思いから、市制80周年である平成16年に歌詞を一部改訂しました。  平成16年の改訂では、基本的な部分は残し、現在の本市の状況と異なり、違和感のある部分を改訂することとし、歌詞の制作にあたりましては、川崎にゆかりの深い本市在住の詩人、小黒恵子氏と、「川崎歌話会」の八城水明氏に御尽力いただきました。  現在、多くの市立小学校で歌っていただいたり、市立幸高校に御協力いただき、庁舎内の始業時のベル等に活用したりしています。  今後も、川崎市歌を身近な歌として感じていただけるような取組を積極的に進めていきます。 オーケストラ版 ピアノ版 楽譜

河川[編集 | ソースを編集]

多摩川水系:三沢川、山下川、五反田川、二ヶ領本川、平瀬川、多摩川 鶴見川水系:片平川、麻生川、真福寺川、江川、渋川、矢上川、鶴見川

歴史[編集 | ソースを編集]

市成立前 原始以前 北西部の丘陵地帯に人が定住したのは古く、黒川などでは旧石器時代や縄文時代の遺跡が確認できる。しかし、多摩川沿いや臨海部の低地はかつて海底だった場所が多く、多摩川の堆積作用や海面の低下により徐々に陸地化が進んだ。

古代 7世紀に律令体制の整備により武蔵国橘樹郡(たちばなぐん)の一部となり、奈良時代には現在の高津区に郡衙が置かれ、地域行政の中心になったと推定される。平安時代からは荘園が発達し、稲毛氏が広い地域を支配した。

中世 前述の稲毛氏の一族稲毛三郎重成は源頼朝の御家人の1人となって活躍した。また大治3年(1128年)には川崎大師(平間寺)が建立され、門前町の形成が始まる。その後鎌倉時代から戦国時代にかけては小規模領主による分治が進み、やがて北条氏の支配下に入った。

近世 慶長16年(1611年)には小泉次大夫の指揮により二ヶ領用水が完成、中野島から大師・大島に至る多摩川流域平野のほぼ全域を流れ、農業生産力の向上をもたらした。二ヶ領用水で潤った水田で生産された米は稲毛米と呼ばれ、江戸で寿司飯として人気となった。

また江戸幕府が成立したことで東海道や中原街道の重要性が高まり、地名「川崎」の由来かつ川崎市のルーツである、東海道の宿場たる川崎宿(現:川崎駅周辺)の整備が進んだ。ただし、川崎宿が正式な宿場に指定されたのは東海道五十三次の中で最後となる元和9年(1623年)のことである。このとき多摩川の橋は流され、以後川崎宿は六郷の渡しの渡河点、及び川崎大師への玄関口として繁栄した。この他にも中原街道の丸子の渡し、大山街道の二子の渡し、津久井街道の登戸の渡しが整備され、いずれも後に東京への鉄道が建設される宿場町が形成された。

近代

大山街道の商店 溝の口 明治・大正期は川崎駅周辺で都市化が急速に進行する一方、丘陵地帯では従来の農山村も維持されていた。その後昭和前期になると鉄道路線の開業が相次ぎ、私鉄沿線には住宅地が、多摩川沿いの南武線沿線には主に工業地が展開した。

明治5年6月5日(1872年7月10日) - 日本最初の鉄道開業(現東海道線)に伴い川崎駅が設置される。その後、郵便・電気などの公共サービスが整備される。

1883年(明治16年) - 多摩川に六郷橋がかかる。

1889年(明治22年) - 町村制施行により、後の市域を形成する橘樹郡川崎町、及び12か村(うち2村は都筑郡)が成立。

1893年(明治26年) - 大師河原村(現川崎区)の当麻辰二郎が梨の新種「長十郎」を発見(ただし発見年には諸説あり)。

1899年(明治31年) - 大師電気鉄道(現在の京浜急行電鉄)が大師線の一部を開業する。以後、品川や横浜に向けて路線を延長していく。

1910年(明治43年) - 日本蓄音機商会(現在は日本コロムビア)が川崎町で創業。

1912年(明治45年) - 神奈川県と東京府(現東京都)との境界が多摩川を境に整理される。

1912年(明治45年) - 日本鋼管(後にNKK、現在はJFEスチール)川崎製鉄所が設立。臨海部の工業化が開始される。

1914年(大正3年) - 川崎〜溝口(当時は高津村)間での乗合馬車運行が始まる。

1914年(大正3年) - 味の素川崎工場が設置される[11]。

1921年(大正10年) - 川崎町で上水道整備が始まる。

市成立後 昭和戦前

京浜工業地帯

1924年(大正13年)7月1日 - 2町1村が合併して市制施行。市域は現在の川崎区西部と幸区東部。人口4万8394人。

1925年(大正14年) - 川崎市章が制定[12]。 1926年(大正15年)2月14日 - 東京横浜電鉄(現在の東急)東横線が小杉町内で開業。 1927年(昭和2年) 3月9日 - 南武鉄道(現在のJR南武線)川崎駅 - 登戸駅が開業。 4月1日 - 小田急小田原線が全線開通、稲田登戸駅(現向ヶ丘遊園駅)が開業。 4月 - 川崎市内初の県立中学校、神奈川県立川崎中学校(現:神奈川県立川崎高等学校)が創立[13][14]。 7月15日 - 玉川電気鉄道溝ノ口線(現東急田園都市線)開業。 1929年(昭和4年) - 新鶴見操車場が完成[15]。 1930年(昭和5年) - 富士瓦斯紡績(現在の富士紡ホールディングス)川崎工場での労働争議で煙突男が出現。 1931年(昭和6年)5月22日 - 日清製粉の工場で火災が発生。従業員80人が死傷[16]。 1934年(昭和9年) - 「川崎市歌」を制定。 1935年(昭和10年) 1月7日 - 水道水が汚染され赤痢患者が大量発生(川崎市の赤痢 (1935年))。同月末までの発病者は1357人[17]。 7月22日 - 川崎駅前にあった京浜デパートに20数名の暴漢が侵入して店内を破壊。後に大規模店の進出に反対していた川崎小売商店連盟メンバーら80余人が検挙された[18]。 1937年(昭和12年) - 陸軍の研究所が現多摩区の生田村(1938年に川崎市へ編入)へ移転。 1938年(昭和13年) - 川崎市役所旧本庁舎が完成[19]。 1939年(昭和14年)4月1日 - 都筑郡の分割併合により埋立地を除き現在の市域が確定。 1942年(昭和17年)2月1日 - 味噌と醤油の配給制度が始まる(横浜市、横須賀市、藤沢市、平塚市、鎌倉市、小田原市も同日から開始)[20]。同時に衣料品にも点数切符制が導入された。 1944年(昭和19年)10月14日 - 川崎市電が開業。 1945年(昭和20年)4月15日 - 川崎大空襲。川崎駅周辺の市街地や臨海部の工業地帯、寺社仏閣の川崎大師などに大きな被害が出る。 昭和戦後

大師橋 1946年(昭和21年) - 初の民選市長として金刺不二太郎が当選。 1947年(昭和22年) - 戦後第1回市議会招集。 1948年(昭和23年) 現多摩区に日本女子大付属中学・高校[注釈 3]が開校 8月2日 - 市内で竜巻が発生。戦災跡地に建てられていたバラック住宅が被害に遭い、死者3人、重軽傷者106人[21]。 1950年(昭和25年)12月15日 - 川崎市バス事業が開始[22]。 1951年(昭和26年) - 現多摩区に明治大学生田校舎が開設。 1952年(昭和27年) - 現川崎区の富士見公園内に川崎球場(当時は川崎スタジアム)が開場。 1952年(昭和27年) - 向ヶ丘遊園が遊具施設を充実し有料化。 1955年(昭和30年) - 第10回国民体育大会が神奈川県で開催。川崎市は、バレーボール、ウエイトリフティングなどの会場となる[23]。 1957年(昭和32年) 現多摩区に専修大学生田校舎開設。 人口が50万人を突破。この頃から市北西部が首都圏住民の良好な住宅地として人気を博すようになり、政令市に指定されるまでに人口が急増する主因となった。このため、東京都心部へ向かう通勤・通学電車のラッシュは、全国有数の混雑となる。 1960年(昭和35年) - プロ野球・大洋ホエールズが日本シリーズで優勝し、市内でパレードを行う。 1964年(昭和39年) - 多摩区によみうりランドが開業。西生田駅が読売ランド前駅に、東生田駅が生田駅に改称。 1965年(昭和40年)6月18日 - 川崎市旗を制定[24]。 1966年(昭和41年) - 東急田園都市線溝の口駅 - 長津田駅が開業。 1967年(昭和42年) 現多摩区に日本民家園が開園。公営施設としては北部地域初の大規模文化施設。 多摩区(現在の麻生区)東百合丘に調布学園女子短期大学が開設。 1968年(昭和43年) 4月25日 - 東名高速道路が開通し、東名川崎IC(現宮前区)開設。 市営鷺沼プールがオープン。 1969年(昭和44年)4月1日 - 市電が全廃。 1971年(昭和46年) 第2代の民選市長に伊藤三郎が当選し、革新自治体の一員となる。 かわさきおやこ劇場設立 生田緑地に川崎市青少年科学館開設。 現宮前区菅生に聖マリアンナ医科大学開設。 1972年(昭和47年) 4月1日 - 政令指定都市に指定され、川崎、幸、中原、高津、多摩の5区が設けられる[注釈 4]。人口980,280人[25]。 9月 - 川崎市公害防止条例施行[14]。 1973年(昭和48年) - 人口が100万人に到達[25]。 1974年(昭和49年) 4月 - 夢見ヶ崎動物公園が開園[26]。 6月1日 - 小田急多摩線新百合ヶ丘~小田急永山間が開通[27]。 12月1日 - 市民の花「つつじ」、市民の木「つばき」を制定[7]。 1976年(昭和51年) - 全国に先駆けて「川崎市環境影響評価に関する条例」を制定し環境アセスメントを開始した。 1978年(昭和53年) 大洋ホエールズの横浜移転により、ロッテオリオンズが川崎球場をフランチャイズとする。 第1回かわさき市民祭りを開催。 1979年(昭和54年) - 政令指定都市移行を記念して高津区に川崎市民プラザ開設。 1980年(昭和55年) - 国鉄横須賀線の新川崎駅が開業、川崎駅を経由しなくなる。自動車の川崎ナンバーが誕生。 1982年(昭和57年) 6月8日 - 核兵器廃絶平和都市宣言[28]。 7月 - 人口増加に伴い、高津区から宮前区を、多摩区から麻生区を分区し、7区制になる[29]。 第1次川崎公害訴訟が提訴され、大気汚染について国や首都高速道路公団、各企業の責任が追及される。 1983年(昭和58年)1月28日 - 中原平和公園が開設[30]。 1984年(昭和59年) - 「川崎市民の歌」を制作・発表。 1985年(昭和60年) - 川崎市男女共同社会をめざす計画を発表。 1986年(昭和61年) 川崎駅東口に地下街川崎アゼリアが開業。 新百合ヶ丘駅前に日本映画学校が開校。 1987年(昭和62年) - 日本初のシネマコンプレックスと称するチネチッタが開業。 1988年(昭和63年) 川崎駅西口の再開発を巡ってリクルート事件が発覚[注釈 5]。 川崎市市民ミュージアム・ふれあい館・産業振興会館を開館。 平成 1989年(平成元年) かながわサイエンスパーク(KSP)が高津区に設置される。 4月11日 - 高津区のある竹林で1億円の札束が発見される(竹やぶ騒動)。 1990年(平成2年) - 市民オンブズマン制度が発足。 1991年(平成3年) ロッテオリオンズが千葉に移転し、川崎球場を本拠とするプロ野球チームが消滅する。 毎月1日を「ノーカーデー」と定める。 1992年(平成4年) 新百合ヶ丘駅南口にエルミロード[注釈 6]がオープンする。 3月 - コミュニティ施設「川崎マリエン」が開館[31]。 4月 - 川崎市平和館が開館[32]。 1993年(平成5年) Jリーグが開幕、ヴェルディ川崎が等々力陸上競技場を本拠地にする。後期優勝しJリーグ初代年間王者に。 3月 - 全国初のエレベーター付き立体横断歩道橋「川崎ハローブリッジ」が完成[33][34]。 1994年(平成6年) - 市のシンボルマークが決まる。 1995年(平成7年) 8月15日 - とどろきアリーナがオープン[35]。 ポイ捨て禁止条例がスタート。 10月 - 廃棄物の鉄道貨物輸送「クリーンかわさき号」が運行開始[36]。 1996年(平成8年) 市職員採用試験の国籍条項を撤廃。 かわさき市民放送開局。 外国人市民代表者会議を設置。 1997年(平成9年) 富士通川崎サッカー部がプロ化し川崎フロンターレが誕生。 3月25日 - かわさき健康都市宣言[37]。 12月18日 - 東京湾アクアラインが開通[38]。これにより千葉県とも隣接するようになった。 1998年(平成10年) - 麻生区の新百合ヶ丘駅周辺地区が、建設省の都市景観大賞を受賞する。 1999年(平成11年) 川崎公害訴訟が和解により決着する。 10月30日 - 岡本太郎美術館がオープン[39]。 2000年(平成12年) - 川崎球場スタンド撤去工事。翌年改修工事終了。 2001年(平成13年) - 川崎市子どもの権利に関する条例を施行。 2002年(平成14年) 川崎市行財政改革プランを発表。 シネマコンプレックスのチネチッタがラ チッタデッラとしてリニューアル。この頃から川崎駅周辺再開発が加速。 向ヶ丘遊園が閉園。 2003年(平成15年) - 高津区に「川崎市 子ども夢パーク」がオープン。 2004年(平成16年) 麻生区に小田急多摩線はるひ野駅が開設。 川崎市ホームタウンスポーツ推進パートナー制度制定。 7月1日 - 川崎駅西口にミューザ川崎シンフォニーホールが開設[40]。 2005年(平成17年) 路上喫煙の防止に関する条例を制定。重点禁止区域内での路上喫煙に過料2000円を課す事になった。 4月 - 川崎市自治基本条例施行[41]。 2006年(平成18年) 2月 - 多摩区に市立多摩病院が開院[42]。 9月28日 - 川崎駅西口にラゾーナ川崎プラザが開業[43]。 2007年(平成19年) 麻生区に昭和音楽大学が厚木市から移転。 麻生区に川崎市アートセンターオープン。 7月 - 第3回アメリカンフットボール・ワールドカップが開催される[44]。 成人ぜんそくの川崎公害の患者の医療費助成制度が開始される。 2008年(平成20年) 東急電鉄が川崎市から購入した宮前区の土地の土壌汚染に関し、公害等調整委員会が市に損害賠償支払いを命じる[注釈 7]。 4月26日 - 人工海浜を有した東扇島東公園がオープン[45]。 2010年(平成22年)3月13日 - JR横須賀線武蔵小杉駅が開業[46]。 2011年(平成23年) 4月 - 日本映画大学が開学[47]。 9月3日 - 多摩区に藤子・F・不二雄ミュージアム開館[48]。 モントルー・ジャズ・フェスティバル・ジャパン・イン・かわさきが市民の誘致により実現[注釈 8]。 2012年(平成24年) ドラえもん誕生100年前を記念し、ドラえもんに「特別住民票」を交付。 東京地裁、土壌汚染訴訟で川崎市側に責任なしと東急電鉄の訴えを棄却[49]。 2013年(平成25年)3月 - 殿町国際戦略拠点「キングスカイフロント」がまちびらき[50]。 2014年(平成26年) - 川崎球場が川崎富士見球技場(富士通スタジアム川崎)に改称。 2015年 (平成27年) 3月 - 「橘樹官衙遺跡群」が市内初の国史跡に指定[51]。 4月1日 - 京都市を抜き人口国内7位の市となる[52]。 2016年(平成28年) 3月26日 - 南武線(浜川崎支線)小田栄駅が開業[53]。 7月 - 市のブランドメッセージ「Colors,Future! いろいろって、未来。」を策定[54]。 2017年(平成29年) 4月24日 - 人口が1,500,052人に達し人口150万人を突破したと発表[55]。 10月 - 川崎市スポーツ・文化総合センター「カルッツかわさき」が開館[56]。 川崎フロンターレがJ1リーグ初優勝。 令和 2019年 (令和元年) 新庁舎(高層棟及び低層棟)の着工。 5月1日 - 神戸市を抜き人口国内6位の市となる[57]。 12月12日 - ヘイトスピーチに対して罰金刑という刑事罰を設けたヘイトスピーチ条例が全国で初めて制定される。 2022年 (令和4年) 3月12日 - 羽田空港と川崎区を直結する多摩川スカイブリッジが開通[58] 10月25日 - 午前11時7分頃、建設中の川崎市新本庁舎24階で火災が発生した[59][60]。 2023年(令和5年)6月19日 - 川崎市新本庁舎が竣工[61]。

川崎市 新本庁舎 2024年(令和6年)7月1日 - 市政100周年を迎える。